むらりん♥の思い出ばなし その1
昭和9年生まれの父は、鹿児島県指宿郡に生まれ育ちました。
9人兄弟の7番目であったため、中学を卒業後、食い口減らしで大阪へと丁稚奉公に出されたのでした。
難波の道具屋筋にある布団屋に住込みで働き、母と出会い結婚をしました。
後に大学出の新人が入ってきた際、父よりも優遇されたことに憤慨し、店を飛び出しました。
昭和39年に、その後務めた会社の上司から借金をし、大阪市内に布団店を出すことになりました。
借金を返すために、昼夜なく働きづくめに働きました。
昭和40年には弟が生まれ、そんな一生懸命働く父の背中を見て私たち兄弟は育ったのでした。
父は自分に学歴がないことを思い、息子たちには財産は残してあげられないけれど、大学にだけは行かせたいと願っておりました。
幼いころの弟は、大学といえば東大くらいしか知らなかったのですが、「僕は大きくなったら東大に行って布団屋をするんや。」と言っておりました。
父からすると頼もしい限りだったことでしょう。
幼子の夢は、その後、大学といえば東大しかないと、一心に勉強に打ち込むようになりました。
昭和58年、弟は私立大学には目も向けず、東大の理Ⅰに一発合格を果たしました。
両親も私もすごく喜んだものでした。
18歳にしてはじめての下宿生活を始めた弟は、都会の寂しさもあって、何か理由をつけては毎晩電話をかけてきたものでした。
当時は携帯電話など無く、近くの公衆電話から自宅にかけたものです。
晩酌の好きな父は、お酒を飲んだらろれつが回らず、まともな会話もできなくなることも度々でした。
父が電話に出た際に、弟は「お母さんにかわって」と無碍もないのでした。
さぞかし父は寂しかったでしょう。
大学を卒業し、父の意向に背いて民間企業に勤めた弟は、そのまま東京に暮らすこととなりました。
その後、弟は34歳にして結婚をし、2人の子供をもうけました。
最近では年に1、2度実家に帰って来るのみとなりました。
昨年、43年間続けた布団店も、借家の立ち退きにあい、閉店せざるを得なくなってしまいました。
私たち兄弟を大学まで出した父にとっては、布団店には、もう未練はなかったのかも知れません。
この春、私の18歳の娘は、東大の文Ⅲに一発合格を果たしました。
父も私も20年前の感動を思い起こしたものです。
今の私は、娘が都会の人ごみに混じって、ひとり寂しい思いをしないかと心配な気持ちです。
きっとあの時の父もそうだったに違いありません。
【2019年9月8日追記】
このエッセイを書いた年(2008年)の5月に父は胆管がんの手術を受けました。
自宅から病院まで3Kmはありましたが、母は真夏にもかかわらず毎日自転車で見舞いに行っておりました。
母の懸命の看病も甲斐無く父は9月8日に逝去しました。
2ヶ月以上意識がなく、最期は何も語らずに去って行きました。
4年後の2012年9月6日には、母が大腸がんで逝去しました。
奇しくも葬儀の日は父の命日となりました。
享年も同じく73歳でした。
私が参列の御礼を述べた際に上記の逸話を話しました。
霊柩車の助手席に座った際に運転手の方から「良いお話でしたね」と声を掛けられました。
少し霊感のある私は、父が母を迎えに来たところを感じました。
両親は振り向きもせずに共に昇天して行きました。
大変淋しい思いもありますが生前仲の良かった両親ですからまた生まれ変わっても出逢う約束をしていることでしょう。
母の看護は血の繋がっていない妻が懸命にしてくれました。
感謝しかありません。
病床の母はしばしば私ではなく妻の名前を呼んでいました。
私をここまでにしてくれた両親、献身的な妻にとても恵まれました。
言葉に出来ません。
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